ドッペルゲンガーに遭遇したら、どうすればいい?
「世界には自分と全く同じ顔を持つ人間が一人は存在する。そして、もしその一人に遭遇してしまったら死んでしまう」という通説がある。もう一人の自分は、一般的にドッペルゲンガーと呼ばれている。
こわいこわい。自分と同じ顔ってだけでも不気味なのに、出会ったら死んでしまうなんてもっと不気味だ。ドッペルゲンガーに遭遇したら「わたしにそっくりでとっても可愛い!」とか言って双子として生きていきたい。が、現実はそんなに甘くないとしよう。そして、どちらかが確実に死んでしまうと仮定しよう。
「……んで、これってどっちが死ぬんだっけ?」
そうなのだ。そして、それも気になるが、より不可解なのはその仕組みだ。どうやって死ぬの……? だって考えてみてほしい。街中をぷらぷら歩いていて、出合い頭で誰かにぶつかった。謝ろうと相手の顔を確認したところ、ドッペルゲンガーだったせいでいきなり両者がバタン!と天に召されるなんてシチュエーションはちょっと急すぎるし、完全犯罪がすぎる。
「こういうルールで召されますからね! 気を付けてくださいね!」という法則が分からないと「ドッペルゲンガーに遭遇したらどうしよう……」とびくびくしながら生きることになってしまう。それは嫌なので、ドッペルゲンガーに遭遇しても生き残れる方法を考えてみたいと思う。
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先述したように、出合い頭で召されるというのはスピード感がありすぎる。もう少しゲーム性を持たせてみるのはどうだろうか。
例えば、「先に見つけたほうが召される方の処遇を決められる」というシステムとか。「ん? あれ、わたしのドッペルゲンガーじゃない?」と先に気付いた方の前に死神的なものがふわっと現れて、「やるじゃん。んで、あいつヤッちゃう? それとも、見なかったことにする? あ、その場合、キミの寿命を15年もらうけど。5分で決めてもらっていい?」なんて早口にまくしたてられたらどうしようか。
死神という摩訶不思議な存在に対する畏怖と、15年という捨てるには惜しい絶妙な長さの寿命が背中を押して「あ、その、ヤッちゃうほうで」と無意識のうちに回答しているかもしれない。
もしそのあとに死に方も決められるとしたら「とにかく安らかに、痛くない感じにしてあげてください」とか焦って付け加えているかも。というか、わたしが先に見つける前提で話を進めているけど、先に見つけられたらどうしたらいいの。なんだかデスノートみたいな世界線の話になってきた。
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ちょっと思考がファンタジーかつ過激すぎたので、もう少し平和で現実的なパターンを考えてみたい。
普通に出会って「え!ドッペルゲンガー!?マジ!うれしい!」と仲良くなるのも悪くないぞ。今までどんな人生を歩んできたのか、どんな生活をしているのか、仕事は、趣味は、恋人や家族の有無はなどなど、つもる話も多いだろう。自分と同じ顔なのに違う人生を歩んでいるという現実と夢の狭間みたいな存在のことが気になって気になって、話が弾んで仕方がない。
……もし話している中で、ドッペルゲンガーが自分より明らかに充実した人生を歩んでいると分かったらどうしようか。給料は自分の数十倍、住んでいるところも一等地の高級マンション、魅力的な恋人と自由な暮らし。近くに手ごろなサイズの尖ったものとかが置いてあったら……。やばいやばい、またダークな思考になってきた。
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話がどこまでも広がってしまいそうなので、ここらで落ち着こう。パターンとしては、超自然的な力が働いてデスノートみたいな攻防戦になるか、「嫉妬」という人間の醜い感情が引き金となって、終焉を迎えるかのどちらかだと考えられる。
現在、どちらの法則で運用されているか分からないので、相手より先に見つける練習を怠らないように。そして、もし遭遇して普通に仲良くなってしまいそうなときには嘘八百を並べる練習もしておこう。
それにしてもあまりにも悲しい対処法だ。もっと楽しくて優しいやり方をご存じの方がいればぜひお知恵を拝借したい。
走馬灯に入れる記憶を選べるとしたら、何を入れるか?
「死の間際の『走馬灯』、実在の可能性 脳波が示唆=カナダ研究」――BBCニュースが公開した記事がわたしの妄想癖を刺激した。
「カナダのある研究チームは2016年、87歳のてんかん患者の男性の脳波測定を試みた。ところが測定中、患者が心臓発作に見舞われ死亡。予期せず、人が死ぬときの脳の状態が記録された。その記録には、死の前後の30秒間に、男性の脳波に夢を見ている時や、記憶を呼び起こしている時と同じパターンの動きが確認されたという」(BBCニュース 22.02.24)
そういえば以前、友人が車の事故に遭った時に走馬灯を見たと言っていたな。その時は直近に起きた記憶がフラッシュバックしたとのことだった。人生最後の映像、せっかくならハイライトを詰め込みたい。しょうもない記憶に容量を割くのはごめんだ。
わたしはあと60年くらい生きる予定なので、それまでに医療が発達して「自作の走馬灯を流す手術」が実現しているかもしれない。今から走馬灯に入れる記憶を選んでおくことにしよう。走馬灯手術の被験者1号になるぞ!
と言ったものの、そもそも走馬灯って何秒ぐらい見れるのだろうか。人生の徳によって「あなたは3分」「あなたは5秒」と決められてしまうとしたら切ないが、とりあえず30秒と仮定してルールを考えてみようと思う(走馬灯の秒数でマウントをとる未来も近い……)。
【走馬灯を作ろう! 基本ルール】
- 全体で30秒
- 1つの記憶の所要時間は5秒(つまり6つ入れられる)
- うそはダメ。事実に基づいた記憶のみ
少々ルールがゆるすぎるような気もするが、自分の好きな記憶を入れるのだから自由度は高いほうがいい。次はどの記憶を入れるか考えていく。
まずは幼少期の記憶からあさっていこう。保育園のときに両想いだった「しゅんぺい君」の記憶とか手ごろでよさそうだ。お昼寝タイムに布団を隣同士にして「ねえねえ、好き?」「好き!」とか言い合っていた。完全にませているが、かわいいので入れる。
次の記憶は小学生。トイレの便器の中に髪留めを落としてしまった筆者、まだ用を足す前だったので一応きれいなはずなのだが、どうしても便器に手を突っ込めずにいた。なぜか友人を召喚し、代わりに取ってもらった記憶がある。……冷静に考えて最低すぎる。時効だとは思うものの、申し訳ないので貴重な5秒を使っておく。
やばい、コラムの字数制限が迫ってきている。あと4つも記憶を選ばなくてはいけない。中学時代の記憶はオーストラリア留学から選出しよう。友人とスーパーで買い物中、近所のお兄ちゃん(イケメン)が「Hey, girls!」と言いながら背中にポンっと触れ、一瞬で恋に落ちた。
高校は思い出がありすぎて困るが、校門での持ち物検査を回避するために校舎裏のフェンスに穴を開けて登下校していた記憶がTHE・青春って感じで楽しそうだ。友人や一部の後輩も使うようになり、最終的に信じられないくらい穴が大きくなっていた。
大学時代には友人の失恋に便乗し、「失恋の傷を癒すためにホストクラブに行かせてください」というタイトルでクラウドファンディングを実施。2万円ほど集めて、新宿・歌舞伎町のホストクラブに嬉々として出向いたが、あまり楽しくなかった。いい経験ではあったと思うから入れておく。
最後に直近の記憶から一つ。執筆した記事がヤフトピに選ばれ、Twitterで好意的なコメントとともにシェアされているのをにやにやしながら眺めている自分を入れておこう。
筆者は齢25のため人生のビッグイベントがまだそこまで多くない。日常に即した出来事ばかりだ。小学生の記憶はもはや懺悔であり、他のものも比較的しょうもない。しかし、あらためて考えると、こうしたしょうもない日々が自分の幸せを形作っているのだと気づかされる。未着手原稿の山を横目にこのコラムを執筆しているわけだが、そんな時間も愛おしい。まだまだ入れたい記憶がたくさんある。走馬灯の時間を1時間にしてもらえるよう、今日から徳を積むことにする。